「あっっっっつ!」
陽光の余りの熱に、総司令部の執務室というのも忘れてレオアリスは口走った。
午後は三刻、斜めに落ち始めた太陽が、遠慮会釈なく窓を貫き降り注いで――いや、突き刺さってくる。
「何これクソあっっっつ!」
今年の夏、王都は連日、かつてないほどの猛暑に見舞われていた。
容赦なく照りつける陽射し。王城の庭園も王都の街も、石畳に素足なぞついたら飛び上がるくらいだ。
軍服の詰め襟を開き――いやもう、上着をさっくり脱いで椅子の背に掛け、じりじりと焼き付けてくる太陽から逃れるために、まだ残っている僅かな影へじりじりと椅子ごと移動する。
総司令部は王城南棟に位置するのだが、この執務室は庭園に張り出した造りと三方の窓のせいで陽当たりは良好すぎるくらい良好だった。
おまけに執務机が窓側に、窓に背を向けた位置取りなのだ。
春秋冬なら昼寝にちょうど良いのだが
「焼け焦げる……っ」
今執務室に誰もいなくて良かった、もう一枚脱ごうかな、と現在の立場に相応しくないことを真剣に考えた時、正面の扉が何の前触れもなく勢い良く開いた。
「赤竜に文句言いに行くぞ!」
朗々と、騒が――ではなく、張りのある声の宣言。
頭の後ろ、高い位置で括った艶やかな黒髪が跳ねる。
「何の話だ……」
「準備しろレオアリス!」
「しない。一体何の話ですか、公爵」
レオアリスはキッパリ断りを入れてから、扉の前に堂々と立っている同い年の友人及び正規軍将軍及び南方公アスタロト侯爵へと、発言の趣旨を尋ねた。
艶やかな黒髪とすらりとした細身、滑らかな肌に深紅の瞳。
一見とても美しい。一見。
「だから赤竜に文句言いに行くんだよ。いくら何でも暑すぎる!」
「そういう問題なのか?」
「知らないけど! 街の噂お前聞いたか?!」
「いいや」
「私のせいになってるから! 炎帝公が暴れてるんじゃね? ハハハ、って、私を何だと思ってるのかみんなは!」
「うーん」
「私の名誉回復の為にも赤竜に」
「失礼致します」
と入室したのは近衛師団副総将グランスレイだ。
五十代半ば、大柄のいかにも武人といった偉丈夫であり、レオアリスが近衛師団第一大隊のころから副官として支えてくれている。
「閣下、アスタロト公爵をお通ししました」
過去形。
「慣れきったな、グランスレイも……」
最後の砦だったのに、とレオアリスは項垂れた。
「申し訳ございません、お止めしきれず」
と深々生真面目に頭を下げる。
「それとたった今、陛下がお越しになられました」
グランスレイが皆まで言う前に、身の裡の剣がその気配を捉えていた。
「陛下」
レオアリスは一瞬で立ち上がり、椅子の背に掛けていた軍服の上着を掴み、羽織った。
「ちょっ、レオ」
アスタロトとグランスレイの横を抜け、次の間を通って総司令部執務室へ駆け出る。
奥の扉に立つ若々しく凛々しい王の姿を真っ直ぐ捉えた。
「陛下――! 御用件があればお呼び頂くよう、重ね重ね申し上げているでしょう」
広い執務室を横切り歩いてくる王へ近付き、一度膝をつく。執務室内にいた事務官達も執務机の前に出て膝をついている。
レオアリスは立ち上がり、自分よりもまだ背の低い、若い君主を見つめた。銀の髪、金の双眸は前王を彷彿とさせる。
「何度目ですか」
「良いのだ」
齢十二歳、即位五年を経た少年王は、誰の影響か生来の性質か、ずいぶんと自由闊達に成長した。
「アスタロトがここへ行くと言って飛び出したから、私も来た」
影響はどうやらそこか、とレオアリスはアスタロトが飛び出した光景を想像した。すごく容易い。
「ちゃんとセルファンに送ってもらったぞ」
そのセルファンは執務室の戸口で苦笑を向けている。
若き王、ファルシオンは自らの剣士を見上げた。
「公休なのに執務室にいるそなたこそ、私のことは言えん。休む時は休めと常日頃言っているだろう」
「陛下がこうして出歩かれるからですね」
「むう……」
頬を膨らませた様子は年相応だ。
「陛下、今回は」
アスタロトは何を、と言おうとした背後から
「ルベル・カリマの里に行くぞ!」
と溌剌とした声がかかった。
「私も共に行こうと思ってな」
レオアリスはファルシオンとアスタロトとを、それぞれ見比べた。
「お二人とも、そこにお座りください」
と談話用の長椅子を示す。それぞれ絹張りの長椅子が一つと、一人がけの椅子が二つ、あいだに低い卓を挟んで向かい合っている。
ファルシオンはいたずらっ子のようにさっと笑みを閃かせ、素直に長椅子の片側に座った。
「説教は受けないぞ。私は行くぞ。私の名誉のためなんだからな」
ぶつぶつ繰り返しつつもアスタロトも座る。
レオアリスは二人の正面の椅子に腰掛けた。
「お二人が動くことがどのような意味を持つか、お分かりですか」
「初手で一番痛いところを突いてきたな」
ファルシオンが嬉しそうに頬を綻ばせる。
「急所だ」
アスタロトがじろっとレオアリスを睨む。
「何かお前、ロットバルトに似てきたぞ。良くないぞ」
「学んでるんだから当然だ」
「まだ甘い」
涼しげな声に振り返れば、セルファンが当のロットバルトを案内してくるところだ。
「ロットバルト」
異口同音に迎えられつつ
「初手で最大の札を出すべきではありません。そこを論破されたら出す手を失いますからね。御留意を」
さらりとそう言って、その姿に相応しい洗練された動作で空いていたもう一席の椅子に腰を下ろす。
「なんで来た」
アスタロトは美しい面を盛大にしかめた。
王国最高の美女と巷では謳われるアスタロトと並んで見目麗しいこの財務院長官、西方公ヴェルナー公爵は、自由奔放なアスタロトが数少ない苦手とする存在の一人だ。
口で勝てないから。
腰の引けたアスタロトへ、ロットバルトは
「唐突に胡乱な提案をされた挙句、会議が終わるか終わらないかの内に飛び出して行かれたもので」
微笑んで、蒼い瞳を正面の二人に据えた。
「さて。どのような目的を持ち、どのような成果を得る為に赤竜と会おうとお考えですか」
アスタロトがあわあわ身体を動かす。
「も、目的? 成果?」
「国益としてです」
「こわい……」とレオアリスは傍らでこっそり呟いた。確かに自分はまだ甘いと実感する。
「国益――っ?」
口籠るアスタロトの横でファルシオンがロットバルトを見つめ返す。もともと聡明さを持つ金色の瞳は、即位後に一層思慮深さを増した。
それから、ちょっとしたいたずら心も。
ファルシオンはもっともらしく、威厳を帯びて答えた。
「この気温の上昇について、赤竜に対応する術があるのならばそれを尋ねたいと思っている」
「そうです! 陛下。それ! このクソ暑さの解消のためで、皆んなのためになることだっ」
どうだとばかり、ぱっと頬を明るくしたアスタロトだが、ロットバルトの微笑みは一筋も変わらない。
「気温の上昇は単なる気象現象です。今回がそうした条件が揃ったというだけのこと。赤竜は無関係でしょう」
「わからないだろ!」
「そう、判らない」
「えっ」
「判らないことを元に憶測で動くべきではありません。特にあなた方のお立場では。それが先ほど近衛師団総将が申し上げたことです」
こういう風に話を展開させるのかと、レオアリスはしっかり心に刻んだ。
「王と正規軍将軍が赤竜の影響などと軽々に口にすれば、人心を徒に騒がすことになります」
「ふむ。アスタロト、これは諦めるしかないようだ」
ファルシオンがあっけらかんと微笑む。
アスタロトは悲しげな顔をした後、目の前の卓に突っ伏した。
「嫌だぁ! 遊びに行くぅ!」
「そっちが本音かよ」
「カラヴィアス殿いつでも来ていいって言ったもん」
「社交辞令だ」
アスタロトはがばっと跳ね起きた。深紅の瞳が睨む。
「レオアリスのばかー! お前はザインやティエラに会いたくないのかー!」
「だから俺も行く想定するな」
「ははは」
やりとりに陽の光に似て笑い、ファルシオンは傍らのアスタロトを見た。
「よし、アスタロト。ルベル・カリマの里に行くのを断念する代わりに、そなたの名誉を守るため、民達を涼しくする祭りでも行おう」
「陛下……」
レオアリスが眉を寄せる。またさっくりと、大規模なことを言い出した。
「水を用いた祭りが良いな。皆に水を楽しんでもらうのだ。城の地下から汲み上げる装置は余裕がある、水路や各広場の噴水を使えばそれなりのことができよう」
「賛成です! 私も全面協力します!」
楽しそう、と瞳を煌めかせアスタロトが身を乗り出す。
「うむ。水となれば早速、太公に協力を求めに行こう」
「行きましょう!」
軽快に椅子から立ち上がった二人を、レオアリスが呼び止める。
「いやいやいや、お待ちください、陛下。太公閣下に何のお話を持っていかれるんですか。せめて内容を整理してから」
「水芸してもらうー」
「だからそれを整理しろと」
「善は急げだ」
とファルシオンとアスタロトはすたすた歩き出した。
「ロットバルト」
口添えを求めたが、ロットバルトは気にした様子もない。
「まあ、問題ないでしょう。王都が潤う結果になれば」
「――」
レオアリスは束の間黙り、息を吐いた。
「上手いこと言うな」
「安心しろ、レオアリス」
ファルシオンが振り返る。
銀色の髪を陽光が鮮やかに縁取っている。
「当然、きちんと日照りや水不足の地への対策も併せて行うぞ。だがまずは楽しめる方が良いだろう?」
だからそなたも来い、と、屈託ない笑みを向けられ、レオアリスはほんの少しの苦笑と大きな誇りを抱いて立ち上がった。
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